1972-04-26 第68回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号
やはり日露戦争前後におけるペテルスブルグまで入っていった、日英同盟が失敗したときにどうなるかということを憂慮した伊藤博文の悲願なり、ヨッフェと外交交渉をやった後藤新平なり、あるいは戦後における鳩山さんなり、いま赤城さん、ちょっと小粒になったけれども、いずれにしても相当な人がこの問題には取っ組んでいるが、しかし、もっと若い世代の、いまの大臣のような意気込みが内閣の中から出てこなければならないし、これは
やはり日露戦争前後におけるペテルスブルグまで入っていった、日英同盟が失敗したときにどうなるかということを憂慮した伊藤博文の悲願なり、ヨッフェと外交交渉をやった後藤新平なり、あるいは戦後における鳩山さんなり、いま赤城さん、ちょっと小粒になったけれども、いずれにしても相当な人がこの問題には取っ組んでいるが、しかし、もっと若い世代の、いまの大臣のような意気込みが内閣の中から出てこなければならないし、これは
もう愛知さんも御存じの昔の日ソ国交回復の糸口となった後藤新平さんとヨッフェの会談でもわかるように、ああいう会談が相互に行なわれるようになると、このむずかしい領土問題打開の糸口ができるんじゃないかと思うのです。いかがでしょう。
核融合の研究所はクルチャトフ原子力研究所、ヨッフェ物理工学研究所、カルコフ物理工学研究所、電気物理装置研究所、そこで研究を進めております。いままでそこで総合的にやっておりますのは、向こうでいっておりますトコマック法と称します装置でやっております。これは磁場の置き方のかっこうで違っている方式でございます。その実験データが去年の八月にノボシビルスクの会議で発表されました。
あの外務大臣は、あれは後藤新平のおいっ子だ、後藤新平は、大正十年東京の市長をやっているときには、ヨッフェなどを呼んで日ソの国交回復を先べんをつけた先覚者である、そういう先覚者のおいでありながら、何で一体そのおじの血を引かないで、こういう反動的な外交方針をやっておるんだろうか、その点をよく教えてやっていただきたいと。
そこで私が申し上げたいのは、日ソの関係におきましては古い時代には芳澤・ヨッフェ会談というものを北京において開いて、数十回の会談の後これが成功しました。
かつて後藤新平氏は、ヨッフェを呼んで、その当時の日ソの国交を開く糸口を作られたのでありますが、私は今度の鳩山首相のお仕事は、もっともっと大きな歴史的な意義を持つ事業だと思いますから、もう一、二年くらいは健康が大丈夫だと言われる首相の悲壮なお気持に同情いたしまして、首相の御事業の成功を祈ります。
それは御承知の通りに、ヨッフェとの会談は東京で初めやりましたが、難航に難航を重ねて、これは全然失敗でございました。その次に大連でやりました。これも今お話の通り、大連から東京に来たのじゃございません。東京から大連に行ったのでございます。これも失敗でございました。それからさらに長春に参りました。満洲国の新京でございます。ここでやりました。これも失敗をいたしました。
○稻村委員 実は私総理大臣に質問したいのですけれども、時間がありませんから、外務大臣に日ソ国交回復に関する所見をお伺いしたいのですが、鳩山内閣が日ソ国交問題を取り上げたことは、私は後藤新平氏がヨッフェと交渉して、日ソの国交を回復したと同じような、それよりも重大な問題だと思うのです、日本の平和と自立のために。そこで日ソ国交の回復は、これはもうどんな場合でも日本のためにはマイナスにならぬと思うのです。